しぐれ庵

ロンリー・ウーマンが棲む自由空間から発信します。

大島みち子『若きいのちの日記』

1942年2月3日、西脇市に生まれた大島みち子さんは、1963年8月7日、21歳で他界した。
いま、生きていたら76歳である。

わたしが小6のとき、「愛と死をみつめて」が一世を風靡した。
わたしと同じクラスのYくんが視線だけでわたしに好意を示していたが、会話をしたことは一度もなかった。
名前はちがうが、ちょうどわたしたちの名前が「マコとミコ」と呼べたため、クラスメイトからはやしたてられ、とても不愉快だった。
気配だけなのにクラスメイトが気づいていたとは、小6といえども侮れない。
2年間、同じクラスにいながらYくんとは言葉を交わすことはなかったが、わたしの初恋のひとだと気づいたのは、中1になってからである。

中学生のとき、『愛と死をみつめて』と『若きいのちの日記』を読んだ。
いずれも大和書房から刊行された単行本である。
大島みち子さんと河野実さんの往復書簡集は、みち子さんの死から4ヵ月後の1963年12月に初版刊行されているので、緊急出版だ。
日記のほうは、翌年の1964年1月に初版刊行された。

わたしにとり書簡集のほうはそれほどインパクトはなかった。
ミコとマコにとって生命線だった往復書簡は、他者からみるとそれほどでもないのだろうか。
あるいは、わたしだけの感想なのか?

ミコが軟骨肉腫により、左眼を含め顔の左半分を失うという酷い手術を受ける決意をした手術前と、手術直後の手紙が最高潮だったと感じたのを、いまでも記憶している。
ミコはマコの愛に応えるため、成功率が15%の難手術に挑戦した。
「手術台で死ねたら本望」と日記に記している。
実際、脳膜炎か出血多量で手術台で息絶える確率が大きかったのだ。
ミコの死が近づくと、ふたりの書簡はトーンダウンしてゆく。
マコがミコを失う苦しみに耐えられなくて自殺未遂したりして、ふたりの愛が彷徨いはじめたからだろうか。

    §

わたしが衝撃を受けたのは、みち子さんの日記のほうだ。
明朗な外見とは裏腹に、「KIROKU」というタイトルのノートに記された日記はとても暗く、孤独感が漂っている。
中学生のわたしは、夜、ひとりでトイレにゆくのが怖いほど怯えていた。
大島みち子さんのような、美しく聡明で人柄のよい女性が、どうして顔の半分を失って21歳の若さで逝ったのか。
長年の宿題だったが、いまだに答えはみつからない。

みち子さんの日記のなかで最もインパクトを受けたのは、「片眼のないおばけ」というタイトルの詩である。
1963年5月15日に記されたということは、死の3ヵ月まえ。
最後の日記は6月26日である。

いま、わたしの手元に初版の単行本はない。
最近、Amazonで入手した『若きいのちの日記』(2006/03/15発行•だいわ文庫)を、繰り返し読んだ。
わたしの記憶では巻末に主治医の所見があったが、文庫では省かれていて残念だ。
巻末に河野実さん、みち子さんの父・忠次さん、母・しげ子さんの手記がある。
忠次さんの「みち子の闘い―父記す」だけが長文で、中学生のときににもその筆力に驚嘆した。
同時に、なんと頭のいいかたなのだろうと。
みち子さんの日記から受ける筆力より、忠次さんのほうが優れているとわたしは感じる。
いま、さらにその想いを強めている。
元気なころのみち子さんは、独身のジャーナリストになり、社会をきれいにしてやろうという野心をもっていたという。

母・しげ子さんの「最期のとき―母記す」によると、息を引きとったときに病室にいたのはしげ子さんのみ。
ちなみにミコとマコが最後に会ったのは8月3日、死の4日まえである。
父・忠次さんの手記によると頭痛により悲痛な叫び声をあげていたそうだが、しげ子さんが見守る臨終の床では何の痛苦もなく眠り続けていた。
11時20分、ふりしぼるような声で「おかあちゃん」とかすかに呼ぶ声にふりむくと、わずかに唇がびくびくと動いていた。
のどがかわいたのだと思ったしげ子さんが、ガーゼを台所へしめしに行って引き返すと、息を引きとっていた。

しげ子さんの手記は短いが、余韻がある。
みち子さんは動かない口で、なにかをお母さんにいいたかったのだろう。
息を引きとる瞬間をだれにもみせなかったところがみち子さんらしいと、わたしは思う。

    §

この記事を書くために調べていたら、2005年12月に『「愛と死をみつめて」終章 もうひとりのマコ』という本が大和書房から刊行されていることを知り、Amazonで入手した。
「愛と死をみつめて」が刊行されてから42年後に、マコがミコと共有した時間を回想した内容だ。
一気に読んだ。
みち子さんの日記がいつまでも余韻を残し、エンドレスなのが息苦しいのに対し、実さんの回想はなぜか余韻がない。
わたしがわかったことは、東京と大阪間の交通費と宿泊代、そして長距離電話の代金を捻出するために、大学生のマコがたくさんのアルバイトをこなしたこと。
マコがミコを女性として愛した以上に、ミコの人間性に畏敬の念があったということ。

河野実さんが読者の女性と結婚されたことは、当時のニュースで知っていた。
出版から5年半後だった。
ミコは常にマコの幸せを祈っていた。
本がベストセラーになっただけに、実さんはバッシングを受けたようだが、お門違いだと思う。
また、多額の印税を手にした実さんを、マスコミが叩いた。
血縁者や近所の人が、印税をむしりとりに群がってきたという。
マコはミコとはちがう種類の孤独感を味わったようだ。

    §

「愛と死をみつめて」がドラマ化され、複数の女優がミコを演じた。
わたしが最もミコにぴったりだと感じたのは、映画化されたミコを演じた吉永小百合である。
最も記憶に残っているのは、モノクロの映画は暗いトーンで、死期が近づいたミコが激しい頭痛に苦しむ姿と、マコからの電話をとるために詰所まで必死に歩いてゆく姿だ。
映画「愛と死をみつめて」は、1964年9月19日に公開された。
吉永小百合が本を読んで感動してミコ役を志願し、日活の反対と、遺族の映画化反対を押し切ったらしい。

撮影終了後、吉永小百合は西脇市のみち子さんの実家を訪ね、お父さん、お母さん、妹さんに歓迎される。
「きょう一日、みち子になってください」といわれ、みち子さんの赤いかすりの着物を着て、みち子さんの部屋で一泊。
翌日は、妹さんとふたりで加古川の土手を散歩し、映画のなかでも歌った西脇高校の校歌を歌ったという。
「死ぬほど家に帰りたい」と日記に書いたみち子さんは、いくら周囲に勧められても帰らなかった。
阪大病院に入院してから、一時帰宅はしなかった。
懐かしく、愛情たっぷりの両親が待つ家に帰ったら、阪大病院で病魔と対峙する孤独な生活に耐えられない、と思ったのだろうか。
そんなみち子さんは、吉永小百合の肉体を借りて念願の帰宅を果たした。
ひとりの人間を演じることの重さと至福を、わたしはあらためて感じる。
みち子さんのご家族にとり、かけがえのない癒しになっただろうと胸が熱くなる。

これだけの文章を書くのに、とても時間を要し、身を削る想いをした。
が、これを書かないと、つぎの記事に進めないのだ。
まだまだ不完全だが、これで終了とする。