しぐれ庵

ロンリー・ウーマンが棲む自由空間から発信します。

映画「あん」とハンセン病について考える

樹木希林が9月15日、75歳で惜しまれて他界した。
2013年、全身がんを告白していたので、驚きはなかった。
死の直前まで仕事をしていたことには、脱帽するほかない。

20代のころから老け役だったというが、作りすぎの感があり、わたしは好きになれなかった。
役が実年齢に近づいたあたりから、樹木希林の味がでてきたように思う。
内田裕也をわたしは好きになれないし、その奇怪な夫婦関係にも興味はない。
1964年に岸田森と結婚し、1968年に離婚しているのがわたしには驚きだし、そちらに興味がある。

それにしても1年半で別居し、ひとり娘と3人の孫という財産を、生活を共にすることなく手中にしている内田裕也という男は滑稽だ。
ひとり娘・也哉子が元木雅弘と結婚したのは、ほんとうによかったと思う。
わたしのインスピレーションなので当たっていないかもしれないが、性格の悪そうな樹木希林に対し、元木雅弘は真逆にみえる。

    §

樹木希林が演じた作品でわたしが最も感心したのは、映画「あん」だ。
原作:ドリアン助川「あん」
監督・脚本:河瀨直美
公開:2015年5月30日

樹木希林が主役の徳江を演じている。
どら焼き屋「どら春」の求人募集の貼り紙をみて、手の不自由な徳江が雇ってくれと懇願する。
雇われ店長でやる気のない千太郎は、手渡された徳江の手作りのあんの絶品ぶりに驚き、雇うことにした。
徳江のあんを使ったどら焼きはおいしいと評判になり、店は繁盛する。
徳江からあんの作り方を教わるうちに、犯罪者の経歴をもつひとり暮らしの千太郎に、生きる活力が宿ってくる。

ところが店のオーナーが、徳江がハンセン病だったという噂を聞きつけ、千太郎に解雇を迫る。
噂が広まったせいか店は閑散とし、徳江は店を去る。

荒れる千太郎は、ワカナ(店の常連客の中学生)に誘われ、ハンセン病隔離施設で暮らす徳江と再会する。

わたしがこの映画で疑問だったのは、なぜ徳江が千太郎の店で働くことを渇望したのかということ。
千太郎においしいあん作りを伝授したかったのだろうか。
療養所で50年間作りつづけたあんを、みんなに味わってもらいたかったのか?
一心にあんと向かいあう徳江の真摯な姿は、映画を観る人間に伝わってくる。
千太郎のその後の人生を観てみたい。

樹木希林は徳江の過酷な人生を、言葉ではなく実存で表現していた。
そこが印象深く、作品を重厚にしていた。
原作者のドリアン助川は、樹木希林と河瀨直美監督を意識しながら作品を書いていたらしい。
ハンセン病をテーマにした映画「あん」がヒットしたのは、ハンセン病を生々しく描くのではなく、空気感として伝えようとしたからではないか。
ハンセン病は過酷な病なので、まっこうから描かれると、観る側は受けとめきれない。

    §

ハンセン病はわたしには重すぎて敬遠していた。
2008年7月、友だちに誘われて結純子のひとり芝居「地面の底が抜けたんです」を観た。

原作:藤本とし『地面の底が抜けたんです』
脚本・出演:結純子

芝居終了後、藤井としの本を買い、結純子にサインしてもらった。

藤井としは1919年生まれで、18歳のときに発病。
2度の自殺未遂。
当時は遺伝病といわれ、まさに生き地獄だった。

藤井としの本を読み、「全生園で北條民雄と一緒の時期があった」ことを知った。
結核病棟にいた北條民雄を見舞ったとき、診察をしていたお医者さんが「文学者としては優れた人だが、人間としてはゼロだ」といったという。
以前から北條民雄には関心があったが、きっかけがなかった。
「人間としてゼロ」と医師にいわれた患者の作品を、わたしは読みたくなった。
すぐにAmazonで北條民雄の全作品と評伝を入手し、憑かれたように読了した。

1914年生まれの北條民雄は、16歳のときにハンセン病の兆候があらわれ、18歳で遠縁の女性と結婚。
19歳、妻と別れたあと、ハンセン病の告知を受ける。
20歳、全生病院に入院した3カ月後、川端康成に手紙を書く。
22歳、「いのちの初夜」が「文學会」に掲載され、芥川賞候補となる。川端康成は、芥川賞の選考委員をつとめていた。
1937年12月5日、23歳で没。死因は腸結核に肺結核を併発。

38歳の川端康成は、創元社の小林茂とともに弔問。
葬式の費用を準備していた川端康成は、事務員に不要だといわれた。
数少ない弔問者のなかで、霊安所にまであがったのは、ふたりだけだったという。
霊安所で死に顔をみた川端康成は、小説『寒風』に巧みに描写している。
北條民雄から最初の手紙を受けとった36歳の川端康成は、懇意にしている慶應病院の医師から詳しく話を聞き、肺結核よりも感染力が低く、まったく問題がないということを知っていた。
死の前年、鎌倉駅前の蕎麦屋で、北條民雄と会っている。
生前会ったのはこの1回だけ。

北條民雄は1934年、20歳のとき、親友と華厳滝へ自殺に行き、親友だけが自殺している。
その後も自殺願望がありながら、北條民雄は23年の短い生を終えた。
一方、川端康成は1968年、ノーベル文学賞を受賞し、1972年、逗子の仕事部屋でガス自殺し、72年の生を閉じた。

北條民雄の「いのちの初夜」が第3回芥川賞を受賞しなかったのは、本名が露呈すると肉親縁者にとりかえしのつかない迷惑がかかるから。
出身地の阿南市が2年間にわたって本名を公開するように説得し、2014年、没後77年を経て本名が公開された。
本名は七條晃司(しちじょう・てるじ)。
名誉市民として本名が公開されたのかもしれないが、いまも本名を名乗れず、故郷に帰れない元ハンセン病患者が多いのだろう。

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結純子のひとり芝居を観るまでハンセン病は、長島愛生園に隔離されていた患者のために尽力した、精神科医・神谷美恵子と結びついていた。
芝居を観たあと、手元にある神谷美恵子に関する本を読み返しながら、あらためてハンセン病について考察する機会を得た。

1873年、ハンセン病は遺伝病ではなく、感染症だということがわかった。感染力は非常に弱い。
1941年、アメリカで特効薬プロミンによる治療がはじまり、よく効いた。

日本では1931年、らい予防法により、ハンセン病患者を療養所に強制的に入所させた。
1947年、日本でも特効薬プロミンによる治療がはじまり、厚生省が隔離緩和の方向でらい予防法を改正しようとした。
それを阻止したのは、現場の各隔離施設の園長たち。園の実態を暴露してゆく患者自治運動に対抗するため。それにより1953年、らい予防法(新法)が制定され、隔離の維持・強化につながった。
1996年、らい予防法廃止。

現在は、多剤併用療法による治療を行い、保険診療が適用され、一般の皮膚科外来で通院治療ができる。

ミュージカル映画「オペラ座の怪人」はハンセン病だった、という説がある。
原作にはハンセン病だと明記されていないが、「死神もよけて通るような顔」と表現されているという。
そういう設定でみると、怪人の孤絶感には圧倒される。
樹木希林にも孤絶感があるから、徳江を演じることができたのだろう。